他人のことを言うときには「得意」、「上手」ともに用いることが可能ですが、自分の技量について述べるときは「得意」は使えても「上手」は使いづらい印象があります。
提到他人的事情時,「得意」、「上手」都可以使用,但敘述關于自己的技能時,會有如下的印象,可以用「得意」,卻不便用「上手」。
この違いはやはり両者の意味的な違いに起因しているようです。どちらも技量を述べるのに用いられますが、「得意」は主體自身が己の技量に対して抱いている自信を表したり、また技量の度合いの高い様子をあらわしているのに対し、「上手」は主體の技量自體というよりは主體の行為から生じるありさま、たとえば何かを生み出す行為なら生み出された物の様、行為自體であればその行為の様子を評価していると思われます。つまり、「得意」は何かを生み出す能力(の自覚)を表し、「上手」はその能力によって生み出されたものへの評価を表しているということです。両者の違いでは特に「評価」を表し得るか否かという點が重要です。この違いは次のような例を見ると明らかになります。
這樣的區(qū)別歸根結底是由兩者意思之間的差異而引起的。雖然兩者都可以用于表述技能,但「得意」表示主體自身對自己技能所持有的自信,或表示技能很強的狀態(tài),與此相對,「上手」比起主體的技能本身更注重通過主體行為生成出來的東西,比如若是能生成什么東西的行為,就主要描述生成的這種物體的狀態(tài),若是行為自身則可認為對該行為狀態(tài)的評價。也即是說,「得意」表示生成什么的能力(自知),「上手」則表示對該能力生成出來東西的評價。兩者的區(qū)別特別體現在是否能"評價"這一點上,非常重要。這點差異從下面的舉例中可以明顯看出。www.Youtheme.cn
○この絵は上手に描けていますね。(正確)
×この絵は得意に描けていますね。(錯誤)
絵は生産物であるため、生産物(あるいは生産行為)に対する評価として「上手」を用いることは可能ですが、主體の持つ技量を表す「得意」を「絵」に対して用いることは出來ません。また「上手」の対義語である「下手」も「この絵は下手だ」のように評価に用いることができますが、「得意」の対義語である「苦手」は「この絵は苦手だ」としても評価の意味にはなりません。また「苦手」は「納豆が苦手だ」のように技量の有無から転じて好き嫌いも述べられます。このように「得意」、「苦手」は評価というより主體の意識を表していると言えます。
因為畫是生產物,對于生產物(或生產行為)的評價可以用「上手」,但表示主體擁有這項技能的「得意」卻不能對「絵(畫)」使用。此外,「上手」的反義詞「下手」也可以用于類似「この絵は下手だ(這幅畫真差)」這樣的評價,但「得意」的反義詞「苦手」若用作「この絵は苦手だ」則絲毫沒有評價的意義?!缚嗍帧惯€可以用于如「納豆が苦手だ(我吃不了納豆→我不喜歡納豆)」這般從技能有無轉為個人好惡的表述。如上所述,「得意」、「苦手」可以說比起評價更表達了主體的意識。
ここから考えると、自己の技量を述べるとき「上手」を用いることがためらわれるのは、本來他者が行うべき評価という行為(特に高める評価)を自己に対して行うことへの不自然さ、傲慢さといった點に起因していると思われます。一方で「得意」は技量に対する意識を表すため、自己の技量を述べる際に問題なく使えるということになります。ただし自己を低める評価は謙遜につながるため「私は絵が下手です」ということができます。
從這點上來考慮,之所以在敘述自己技能時不能使用「上手」,起因為原本應該是對他人評價的行為(尤其是高度評價)用在自己身上時會產生不自然、傲慢的感覺。另一方面,因為「得意」表示針對技能的自知,所以在敘述自己技能時可以無顧忌的使用。但是,由于涉及到自謙,在對自己評價不高時用「私は絵が下手です(我畫畫得不好)」是可以的。
提到他人的事情時,「得意」、「上手」都可以使用,但敘述關于自己的技能時,會有如下的印象,可以用「得意」,卻不便用「上手」。
この違いはやはり両者の意味的な違いに起因しているようです。どちらも技量を述べるのに用いられますが、「得意」は主體自身が己の技量に対して抱いている自信を表したり、また技量の度合いの高い様子をあらわしているのに対し、「上手」は主體の技量自體というよりは主體の行為から生じるありさま、たとえば何かを生み出す行為なら生み出された物の様、行為自體であればその行為の様子を評価していると思われます。つまり、「得意」は何かを生み出す能力(の自覚)を表し、「上手」はその能力によって生み出されたものへの評価を表しているということです。両者の違いでは特に「評価」を表し得るか否かという點が重要です。この違いは次のような例を見ると明らかになります。
這樣的區(qū)別歸根結底是由兩者意思之間的差異而引起的。雖然兩者都可以用于表述技能,但「得意」表示主體自身對自己技能所持有的自信,或表示技能很強的狀態(tài),與此相對,「上手」比起主體的技能本身更注重通過主體行為生成出來的東西,比如若是能生成什么東西的行為,就主要描述生成的這種物體的狀態(tài),若是行為自身則可認為對該行為狀態(tài)的評價。也即是說,「得意」表示生成什么的能力(自知),「上手」則表示對該能力生成出來東西的評價。兩者的區(qū)別特別體現在是否能"評價"這一點上,非常重要。這點差異從下面的舉例中可以明顯看出。www.Youtheme.cn
○この絵は上手に描けていますね。(正確)
×この絵は得意に描けていますね。(錯誤)
絵は生産物であるため、生産物(あるいは生産行為)に対する評価として「上手」を用いることは可能ですが、主體の持つ技量を表す「得意」を「絵」に対して用いることは出來ません。また「上手」の対義語である「下手」も「この絵は下手だ」のように評価に用いることができますが、「得意」の対義語である「苦手」は「この絵は苦手だ」としても評価の意味にはなりません。また「苦手」は「納豆が苦手だ」のように技量の有無から転じて好き嫌いも述べられます。このように「得意」、「苦手」は評価というより主體の意識を表していると言えます。
因為畫是生產物,對于生產物(或生產行為)的評價可以用「上手」,但表示主體擁有這項技能的「得意」卻不能對「絵(畫)」使用。此外,「上手」的反義詞「下手」也可以用于類似「この絵は下手だ(這幅畫真差)」這樣的評價,但「得意」的反義詞「苦手」若用作「この絵は苦手だ」則絲毫沒有評價的意義?!缚嗍帧惯€可以用于如「納豆が苦手だ(我吃不了納豆→我不喜歡納豆)」這般從技能有無轉為個人好惡的表述。如上所述,「得意」、「苦手」可以說比起評價更表達了主體的意識。
ここから考えると、自己の技量を述べるとき「上手」を用いることがためらわれるのは、本來他者が行うべき評価という行為(特に高める評価)を自己に対して行うことへの不自然さ、傲慢さといった點に起因していると思われます。一方で「得意」は技量に対する意識を表すため、自己の技量を述べる際に問題なく使えるということになります。ただし自己を低める評価は謙遜につながるため「私は絵が下手です」ということができます。
從這點上來考慮,之所以在敘述自己技能時不能使用「上手」,起因為原本應該是對他人評價的行為(尤其是高度評價)用在自己身上時會產生不自然、傲慢的感覺。另一方面,因為「得意」表示針對技能的自知,所以在敘述自己技能時可以無顧忌的使用。但是,由于涉及到自謙,在對自己評價不高時用「私は絵が下手です(我畫畫得不好)」是可以的。